姉妹弟の三兄弟のYouTube動画を見ていたら、子どもの頃の写真の話が出てきました。
長女は写真がアルバム5冊にきちんと貼られて整理されてる。次女は少ない写真が箱にいれられてる。末の弟は写真はほとんどない。でも一番甘やかされてるのは末の弟とか。
更に、それぞれのお誕生日のとき、長女と末弟のときは毎年、お母さんがコラージュ写真をアップしてるけど、真ん中の次女はされたことがない。
そのとき、長女が真ん中っ子あるあるだよね、と。その話をしてるときに、次女は一生懸命堪えてましたが、涙が溢れてきてました。私は同じ真ん中っ子なので、真ん中っ子の悲哀はよくわかり、ちょっぴり切なくなってしまいました。
私の場合は、上が兄なので、洋服などのお下がりがなかったから、その子より状況はましだったと思うけど。
今は変わってるといいけど、私の世代は男の子どもはちょっと別格というか、特別扱いされてます。これって日本だけかな?アジアだと多そうですが。
特に男子が一人の場合は“跡取り“ということで、大切に育てられる。もちろん、跡取りの期待が大きい分大人になったらプレッシャーもあるかもしれないけど、子どもの時はそんなことわからないから、なにかと優遇される跡取り男子ってずるいというか、フェア 公平じゃないなぁ、てずっと感じてた(~_~;)
そのアンフェアさ、不公平さは、男尊女卑に基づいた差別に加え、跡取りとそうでない立場という差別が加わったもの。そしてそれらの不公平は、全て当事者の感覚に委ねられたものだから、理不尽さも足されたりして。
小さな頃から家の手伝いをするのは、私。兄がやらされているのを見たことがない。女の子なんだから、やって当たり前。親が気付く前にやってないと、女のくせに気が利かない。
その言葉はだんだん都合の良いように使われていく。そしてやがて、女のくせに生意気だ、という表現に変化していく。
この言葉を使うのは、驚く勿れ、男性だけではない。同じ女性も使うんですよね(-。-; こうした言葉で育てられてきた女性たちは、時には自身が洗脳されていることに気がつかず、時には同じ心の檻に閉じ込めるために、かつて自身が言われて嫌だった言葉を同じ女性に使ってしまう。
こうした言葉を使うとき、無意識に自尊心を保とうとしているんじゃないかなあ。自分の立場が危ういとか、説明が出来ないけど強要したいときとか。
子どもを育てる時、だから女の子だから、みたいな基準での判断をしないよう、いつも自問自答してましたし、そういう言葉も使わないように努めてました。
ただ、難しいなと思ったのが、女の子らしさ、の扱いです。
私個人としては、まずちゃんとした人間として成立すること。次にせっかく男女が存在するので、それぞれの良さとしての、女の子らしさ、男の子らしさ、があると思っていました。
思っていました、というのは、今はそれもちょっと違うかなと。今は、その人らしさ、なのかなと。
物心ついた頃から違和感を抱えて、それ故に試行錯誤しながら、迷走しながら生きてきて半世紀。今の生活スタイルは意外と心地よいかも。周りの家族は私を私として見てくれる。何かいう時は、“私だから"とか“私らしいね“とか。
今後、社会が以前の姿を取り戻したとき、私はどうなるんだろう。家族以外の人たちとの交流が戻ったときも、この心地よさはあるのかな。もし、みんなとの交流を再開してこの心地よさを失うとしたら、私ってそもそも社会的人間じゃなかったのかも。
こんか取り止めのないことを考えちゃうのも、社会との交流が無くて、暇だからなのかな。